henkyo:

mendokusai:

別の有名な赤さんのその後写真。 on Twitpic
“and for God’s sake, stop talking about what you hate, start talking about what you LOVE!”
sociologbook:

(via suppin)
えええええええええ
というかsuppinさんも大阪?

sociologbook:

(via suppin)

えええええええええ

というかsuppinさんも大阪?

sociologbook:

hatoco:

wacon:

ak47:

tobia:

Lust….
jennymaymeyers:
Home.




これってイームズの自宅じゃなかったっけ。ごちゃごちゃしてるのに落ち着いてるなあ。さすが。

sociologbook:

hatoco:

wacon:

ak47:

tobia:

Lust….

jennymaymeyers:

Home.

これってイームズの自宅じゃなかったっけ。ごちゃごちゃしてるのに落ち着いてるなあ。さすが。

「存在するのは事実だけだ」として現象のところで立ちどまってしまう実証主義に対してわたしは言いたい。違う、まさにこの事実なるものこそ存在しないのであり、存在するのは解釈だけなのだ、と。われわれは事実「それ自体」は認識できないのだ。おそらくは、そんなことを望むのは、愚行であろう。「すべては主観的だ」とお前たちは言う。だがすでにそれからして解釈なのだ。「主観」ははじめから与えられているものではない。捏造して添加されたもの、裏側に入れ込まれたものなのだ。とどのつまりは、解釈の裏に解釈者を設定して考える必要があるのだろうか?すでにこれからして虚構であり、仮説である。
『ニーチェ全集(第Ⅱ期)第九巻 遺された断想(1885年秋-87年秋)』(三島憲一訳、白水社、1984年)、7[60]、397頁。

誰も自由や自我を全くの空想として片づけようとはしないだろう。実際のところ哲学の存立は、それらの真実性にかかっていると言ってもいいのである。というのも普通一般に信じられているように、世界の内奥の真理を探究し、飽く事なく知を愛し求める点に、哲学固有の本質があるわけではないからである。むしろそれは科学の使命であり、人間の自然本性に深く根ざした傾向と言えよう。しかるに哲学はそのように自然な要求ではなく、たまたま歴史上ギリシアの地のみに出現したかなり奇妙な、むしろ徹頭徹尾不自然な態度なのである。なぜならそれは真理には還元されない自由を愛し、知には解消されない自己を尊重するからである。一言で言えば、哲学とは知のただ中に於ける知の権威主義(惑溺)との闘いであり、自由な精神への不断の試みなのだ。哲学に於いて認識が絶えず問題となるのはその限りでの事であり、認識そのものの価値を至上のものとしているからではない。

田島正樹「形而上学という物語:ライプニッツの二つの主題による変奏」野家啓一編『物語:現代哲学の冒険8』(岩波書店、1990年)、165-6頁。

  • 食事
朝:抜き。
昼:トマトソース(しめじ、ツナ、玉ねぎ、人参、にんにく)のパスタ。
夜:

    • 食事

    朝:納豆、味噌汁、焼魚。

    昼:本日のパスタセット(トマトソース)。

    夜:白米、海老フライ、千切りキャベツ、トマト、いんげんとアスパラ茹で、キムチ、いちご。